朝目が覚めて、枕が濡れていることに気づいた。寝起き直後でよく見えない目をパジャマの裾で何度も擦る。濡れているというよりかは湿っているという感じに近く、見た目ではどの部分が湿っているのか分からない。指先で触れてみるとじんわりと濡れる肌に、昨日はそんなに暑い夜だっただろうかと首を傾げる。あまり汗はかかないほうだと思うけれど、暑い夜などは寝汗を掻く。昨日の昼間は確かに暑かったが、日が沈むと涼しかった。深夜に気温が上がったのだろうかと思いつつも、特に気にせず枕のカバーを取り払った。ならばシーツも取り換えた方がいいだろうかと、シーツの表面を確かめてみる。湿った感触はなく、空気と接する部分が多いから乾いてしまったのだろうかと思った。鼻を近づけて嗅いでみるが汗臭さはない。どうしようかと悩んだ結果、結局シーツも取り払った。自分の嗅覚だけでは自信がないし、見た目や臭いが変わっていなくともなんとなく不潔なように思えたからだ。枕カバーとシーツを両手に抱え部屋を出る。洗濯機へ向かおうとしたら途中で、起きてきたロロに会った。

「おはようロロ」
「おはよう兄さん、どうしたのそれ?」
「ああ、ちょっと汗を掻いたみたいだから洗濯しようかと思って。ロロのほうは大丈夫か?昨日の夜は暑かったみたいだが」
「僕は大丈夫。・・・でも、昨日の夜はそんなに暑かったかな?ちょっと寒いくらいだと思ったけど」

寒かったというロロに、まさか風邪でも引いたのではないのだろうなと焦って額に手を伸ばそうとする。しかしやんわりと手を握られて、違うよ、と笑われてしまった。本当かと疑う俺にロロは、逆に心配そうな目で俺を見つめてきた。

「兄さんこそ風邪引いてるんじゃない?疲れた顔してるよ」
「そうか?」
「目が赤いよ、寝不足とか・・・」
「昨日はさっさと寝たぞ?目が赤いのは、きっとさっき擦り過ぎたからだ」
「ならいいけど・・・」

納得がいかないという顔のロロに微笑みながら、早く着替えてこいよと言ってその場を去った。洗濯場へ着き慣れた手つきで枕カバーとシーツを放り込んでスイッチを押す。洗濯機にセットしてある洗剤が水に溶けだすのを確認したあと身支度を澄ませてキッチンへと向かった。フライパンを片手に今日の予定を脳内で立てているとリビングの扉が開く音がした。ロロだろう。朝食の匂いにつられてきたのか、そのままキッチンへと入ってくる。ロロの気配を背後で感じながらも手元からは目が離せないので、目線はフライパンの中に注ぎながら口を開いた。

「今日の弁当は何がいい?昨日はサンドイッチだったからな、ちゃんとしたものがいいよな」
「うーん、兄さんの作るものならなんでもいいよ。」
「なんでもいいと言われてもな、後でこれは嫌だと言われても困るぞ?」
「兄さんが作ってくれたものにそんなこと言うわけないよ」

背後から首筋に顎を乗せるようにしてロロが抱きついてくる。背伸びしているであろうロロの体重を背中に受けてよろけそうになったが、ロロが腰を掴んでくれているおかげで倒れることはない。クンクンと匂いを嗅ぐロロに、そんなに腹が減ったのかと笑った。

「いい匂い」
「朝から甘えん坊だなロロは、ほら、もうできるから」
「うん・・・」

返事はするが離れようとしないロロに仕方ないなと軽い溜息をつく。まだまだ甘えん坊なんだなと思うけれど、こうして甘えてきてくれるのを嫌だと思わないあたりミレイの言う通り俺は"ブラコン"なんだろう。フライパンの中でじゅうじゅうと焼けているソーセージを一つ摘む。持ちあげてふうふうと息を吹きかけて少し冷ましてからロロの口元に差し出した。

「ほら、あーん」

ロロは一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうにそれを口の中へ入れた。熱いから気をつけろよと言うとロロは口をもぐぐと動かしたまま、猫のように頬を俺の首筋へ擦りつけた。ロロの呼吸を耳元で感じながら出来上がったソーセージを皿の上に乗せる。ちょうどいいタイミングでトースターのベルが鳴った。ぽんと飛び出してきたトーストを別の皿に乗せ、昨日の残りのサラダはあったかなと冷蔵庫を覗く。二人分にしては少々少ないかと思われるサラダが残っていて、それを出すことにした。俺が狭いキッチンの中をあちこち移動している間ロロはずっとべったりくっついてきていた。動きにくいけれど邪魔だとは思わないので何も言わずにロロのしたいようにさせてやる。ティーポッドに紅茶の葉を入れて居るとスッとロロの温もりが消えた。どうしたのだろうと振り返ると、出来上がった朝食と食器をロロがトレイの上に乗せているところだった。

「俺がやるのに」
「いいの、僕、料理はできないけどこれくらいなら手伝いたいし」
「そうか・・・ありがとう」
「ううん、いいよ。僕たち家族じゃない」
「はは、そうだな」

過保護になりすぎて何も手伝わせないのは良くないと分かっているつもりだが、できるなら弟にあまり苦労はさせたくないと思う気持ちが勝手にそうさせてしまうのだろう。トレイを持って出て行ったロロに続いて、ティーポッドとお気に入りのカップを二つトレイに乗せてキッチンを出る。リビングではもう既に朝食が並べられており、俺がカップを並べるとロロは席に着いた。温かな紅茶をカップに注ぎ、もうすっかり覚えた砂糖とミルクの量を入れてロロに渡す。そして自分の分も入れてから席に着いた。

「いただきます」
「いただきます、わあ、おいしそう」

トーストにバターをつけて齧っているロロにサラダを盛ってやる。嫌いな食べ物はないとロロは行っているが、玉ねぎが苦手なのを俺は知っている。だからできるだけ玉ねぎを避けて(でも皿の下のほうに少しだけ入れて)ソーセージの乗った皿の横に置いた。テーブルの上を見渡してみると、質素な朝食に少し申し訳なくなる。

「あまり材料がなくてこんなものしか作れなかったよ、今日の放課後に買いに行かなくてはな」
「あ、僕も行くよ」
「お前今日はヴィレッタ先生に呼ばれるんだろ?」
「・・・別に、大した用じゃないし・・・」

口を尖らせて顔を顰めたロロに苦笑する。

「そんなこと言うなよ。お前は俺と違って体育の成績はいいんだから、補習ではなんだろう?」
「うん、まあ、個人的な話ってところかな。でも僕、兄さんと買い物行きたいよ」
「うっ・・・」

捨てられた子犬のように、何かを訴えるような目をして見つめてくるロロに心が揺れる。兄として教師との約束を破らせるような弟に育てるわけにはいかない。しかし、俺と買い物に行きたいと純粋に願ってくれたロロの気持ちを無下にすることは俺にはできない。ほんの少しだけ考えたあと、にこりとロロに微笑んだ。

「それじゃあ話が終わるまで待っててやるから、それから一緒に行こうか」
「本当?・・・でも、待たせるのは悪いよ・・・」
「先生との約束を破るほうがもっと悪いぞ?癖がついたらいけないからな」
「約束は破ったらいけないの?」

食べる手を止めてロロが聞いてきた。まるで約束は破っても大丈夫だと思っているような言い方。ロロの突拍子もない冗談は今に始まったことではないので気にせず、ナイフでレタスを刺した。

「そうだぞ、約束は破ったらいけないだ。一度約束したからには、ちゃんとそれを守らなくちゃな」
「ふうん・・・そうなんだ」
「それに女性との約束は特に守らなければいけないよロロ」
「どうして?」
「将来お前もいつか結婚するんだから、大切な人との約束は必ず守らなくちゃいけないんだぞ」
「大切な人・・・」
「そう、まあロロにはまだ先の話かな。」

ロロの口から恋の話題も聞いたことがないし、俺と似て恋愛事にはあまり興味のなさそうなロロのことだ、きっと結婚なんてまだまだ先だろう。ママーレードの入った瓶の蓋を開け、塗りながらそんなことを考える。パンを噛みながら何かを考えているようなロロの姿に、将来の結婚した自分のことでも想像しているのかなとくすりと笑う。パンを口に含むとさわやかなマーマレードの味が口いっぱいに広がった。

「兄さんは大切な人・・・いるの?」
「えっ?」

突然そんなことを言い出したロロにびっくりした。またいつもの冗談かと思いきやロロの目は真剣で、思わずたじろいでしまう。

「な、なんだ急に?」
「いるの、大切な人」
「えっと・・・」

睨みにも似た鋭い目つきで見つめられるが、急にそんなこと言われても思いつかない。そもそも、"大切な人"というのは曖昧過すぎる。大きく分けてしまえば大切ではない人と大切な人に分かれてしまうからだ。きっとロロが求めている答えは、女性で誰か大切な人がいるのかということなのだろう。うーんと声を上げながらじっとテーブルを見つめる。ここはひとつ兄として大切な人がいると言ってやりたい所だが、生憎今はそんな人物いない。かと言っていないというのもなんだか虚しいような気がした。

(大切な人・・・)

ふと脳裏に誰かが思い浮かぶ。あの子だ、と思い出した。しかしそれは一瞬だけで、次の瞬間にはその"あの子"が誰だか分からなくなる。大切な人と呼べる人が居たような気がしたのだが勘違いだったのだろうか。でも、ほんの一瞬だけ見えたあのマロン色の髪の毛は・・・。顔を上げるとロロはまだこちらを見つめており、俺は目を細めて見つめ返した。

「俺にとって大切な人はお前だよ、ロロ」
「えっ」

ロロの目が見開かれる。驚いた表情に、恥ずかしいことを言ってしまったかなと思ったがこれは事実なのだからしょうがない。冷めてしまったソーセージをフォークを使って皿の上で転がす。

「大切な弟だからな」

たった二人きりの兄弟だから。そう言って俺は食べ終わった食器を重ね始めた。ロロはフォークを持ったままピクリとも動かない。時計を見ると予定の時間より時間が過ぎていて、学校の支度をしなければと立ち上がった。ロロの分だけ残し、あとの残りをトレイに乗せてキッチンへ向かおうとしたが、いきなり立ち上がったロロに腕を掴まれた。トレイの上で食器が滑り落ちそうになったのをギリギリのところで止めて首だけ振り返る。

「どうした?」
「・・・約束、して」
「約束?」

さっきの話の続きなのだろう。俺はトレイを一旦テーブルの上に置いて、ロロの方へ身体を向けた。座っているロロに目線を合わせるように腰を屈める。ロロの手は俺の腕を掴んだままだ。

「僕が・・・た、大切なら・・・約束してほしいんだ」
「ああ、なんだ?」
「ずっと一緒に居てくれるって、僕と一緒に居てくれるって・・・!」

強く言いきって、ロロは俯いてしまった。急にどうしたのだろうか?何か不安なことがあるのだろうか?心配に胸がざわつくが、微かに震えるロロの手に気づき俺はその手を覆うように握った。ハッとロロが息を飲むのが聞こえた。

「・・・怖い夢でも見たのか?」

ふるふるとロロが首を横に振る。

「じゃあ、何かあったのか?」

またロロは首を横に振った。誰かに何かを言われたというわけではなさそうだ。とりあえずホッとし、俺は少しだけ考えると空いた手でロロの頭に触れた。指先が髪の毛に当たるとロロの肩がビクリと揺れた。小動物のような反応に笑みが零れる。そのまま俺は手のひらをロロの頭に乗せ髪の毛を軽く握るようにしてロロの頭を撫でた。

「ずっと居るよ、俺は」

だから顔を上げてくれ、俺がそういうとロロがゆるゆると顔を上げた。同じ紫色の瞳が揺れている。

「・・・ほんとうに?」
「ああ、本当だよ」
「絶対に?嘘じゃない?」

何度も確認してくるロロを愛しく思いながら、俺はたった一人の弟へ向けて言った。

「大丈夫、お前だけには嘘はつかないよ」






扉越しに声をかけても返事が返ってこないことを不審に思い、扉を開けた。電気もつけっぱなしの部屋でルルーシュがベッドの上でうつぶせに寝ている。ルル―シュの右手には読みかけの本が置いてあり、ベッドのうつぶせになりながら読んでいたところ眠くなってしまったのだろうと思った。部屋の明かりを弱り明りに切り替える。パッと部屋が暗くなり目の前が真っ暗になったが、しばらく宙をじっと見ていると目が慣れて周りが見えるようになった。訓練で覚えた気配の消し方を使ってゆっくりルルーシュへ近づく。気配など消さなくても彼は起きないだろうが、つい癖で消してしまうのだ。カーテンの閉まっていない窓から月が見える。

「・・・兄さん?」

小さな声で呼びかける。蚊の飛ぶような小さな声だったためルルーシュをこちら側に戻すことはできなかった。額を枕へ押しつけて、シーツと枕の間にできた僅かな隙間から呼吸するルルーシュ。うつ伏せは苦しそうだなと思い、起こさないようにそっと身体を横に傾ける。

「っ・・・!」

ロロは、現れたルルーシュの顔に思わず息が止まった。ごろんと寝がえりをうつようにして仰向けになったルルーシュのその目元から流れる涙。音もなく、ただ静かにそれは流れ続ける。苦渋の表情を浮かべているわけでもないのに、ルルーシュが悲しんでいるように見えた。薄く開いた唇からは規則的な呼吸音が聞こえている、無意識なのだろう。ルルーシュが顔を埋めていた枕は涙の跡が残っており、ふと今朝のことを思い出す。あれはそういうことだったのかと唇を噛んだ。捻じ曲げられた記憶にルルーシュの心が泣いているのだ。脳で感知することのできないルルーシュの思いが涙を流させているのであろう。ロロは床に膝をついて上半身だけをベッドに預ける。少し傾いたベッドに、ルルーシュの顔がこてんとロロの方を向いた。

(これが、ぼくのにいさん・・・)

涙を流すそれは、なんと弱弱しい姿だろうか。折れそうなほど細い手足が無造作に投げ出されているベッドの上で、まるで、死んでいるように眠っている。ルルーシュとロロが"兄弟"となってからあともう少しで一年が経つ。最初こそ兄弟・・・家族なんてどんな存在なのかも分からず失敗ばかりしまった。常に一人で行動するロロを心配してルルーシュが友達を作らせようとした時もあった。なんとか友達と呼べるような存在はできたが、ロロはあまりその友達とはプライベートで遊んだりそういうことはしなかった。あくまで学校のみとロロは思っている。ルルーシュがゼロとしての記憶を戻した時に殺す、それがロロの任務であり使命だ。だから、いくら日常生活に不備が出ても任務さえこなせればいいと最初は思っていた。だが家族からの愛、もとい、愛情を知らなかったロロにとってルルーシュから注がれる愛情はロロの冷え切った心を優しく包んでくれた。先に入手していた情報からルルーシュは妹を溺愛していたとあった。溺愛と言っても溺愛というものがどういうものかはロロには分からなかったが、多少のブラザーコンプレックスは許容範囲だろうと思っていた。しかしロロの予想とは大きく違い、ルルーシュのブラザーコンプレックスはとてつもないものだった。そしていつしかロロもその愛情に引き込まれ、今はルルーシュを本当の兄だと思っている。けれど。

(もし、記憶が戻ったら・・・)

日々が経つにつれ大きくなる不安。ルルーシュは、いつ記憶が戻ってもおかしくないのだ。ギアスの力は強力だが、時に儚く脆いものでもある。儚く脆いという点ではルルーシュに似ているなとロロは思ったが、そんなことで気を紛らわしても不安は消えない。ロロは、今更ルルーシュを殺せる自信がなかった。ルルーシュがどんな思いでゼロを演じていたのかロロは知らない。本当のルルーシュをロロは知らない。

(本当は、怖い人だったらどうしよう?)

あり得ない。何故なら、記憶を改竄される前の彼をロロは映像で見たことがあるからだ。資料として渡された物の中にあった、学校での生活の様子。主に生徒会イベントでの映像ばかりだったが、どの映像でもルルーシュはやさしく笑っていた。車椅子の少女、ナナリーの前では特に優しい笑顔を浮かべていた。だからきっと記憶が戻ってもルルーシュはルルーシュなのだろう、ただ、記憶が違うだけ。ロロ・ランペルージの兄ルルーシュは皇帝のギアスが作り出した幻なのだ。

(ああ・・・どうか、神様、僕から兄さんを奪わないでください)

指先でルルーシュの目に溜まる涙を掬って、ロロは祈った。神なんて存在に頼ってしまうほど自分は弱くなかったはずだとロロは思ったが、ルルーシュの前では殺人者のロロは姿を隠してしまうのだ。もっと愛されたいもっと触れていたいもっと、もっと、もっと。ルルーシュを知れば知るほどロロは貪欲になっていく。果てを知らない欲求がルルーシュを求めるのだ。真っ暗だったロロの世界に生まれた小さな光。 ロロは身を乗り出してベッドに片手をつくと、ルルーシュの涙をぺろりと舐めた。

少ししょっぱいそれは、ルルーシュの閉ざされた過去の記憶が詰まっているような気がした。




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ロロが足りない・・・