・ひどいジノ
・一部スザユフィ表現あり

それでもよろしければどうぞ。





夜毎に、すすり泣く声で起きる。また泣いているのかと腕を伸ばしてその身体を抱きこもうとするのだが、私の腕は何も掴まないまま宙を切る。そして私は目を開いて、ベッドの上には自分しかいないことに気づくのだ。私が起き上がるとさっきまで聞こえていたすすり泣く声はパタリと止んでしまって、その声は本当に聞こえていたのか分からなくなる。私は自分の横に空いたスペースを見つめてまた眠りに落ちる。あの泣き声はきっと、もうここにはいない彼のものなんだろうと思うと私は言葉にできない痛みを胸に感じるのだ。



たぶん、気の迷いだったのだと思う。何故なら彼は男でありながら他の女性よりも美しく、また、悲しげな表情をしながらあいつを見つめていたからだ。私は彼があいつを好きだということを知っていた。私が知っているということも、彼は知っていた。彼が、生徒会室の窓からあいつを見下ろす視線はいつもどこか寂しげだった。そういう時は決まって生徒会のメンバーは誰もいなくて、私が居ても彼はまるで私なんかいないように、ただあいつを見ているのだ。

「先輩、そんなに見てたら窓に穴が開いちゃいますよ」

私がそう言ってみたら彼は、先輩は一度だけこちらを向いて、また視線を戻した。何度か先輩は咳き込んだあと、何もなかったかのように視線を落とす。冷たいだろう、窓にずっと指先をつけている。カーテンの陰に隠れるように立つ先輩ほうを私が向くと先輩が口を開いた。

「ラウンズは忙しいんだろう、学校生活なんてしてる場合じゃないんじゃないのか」
「早く居なくなれっていう催促ですか?生憎、なんだかんだで暇なんですよ。ラウンズってのも」
「だったらお前も、別に主を探せばいいんじゃないのか。あの皇帝に仕えているよりかは暇じゃなくなるだろう」
「それって、スザクのことを言ってるんだったら不毛ですよ?」

言ってしまった後でしまったと思ったけれど、先輩は何も言わなかった。私は立ち上がり先輩の後ろに立つようにしてその視線の先を追うと、そこにはやはりあいつ、スザクが居た。ただ、居るのはスザク一人だけではなくスザクは右手に女性と手を繋いで花壇の傍をゆっくり歩いていた。繋がれてる手の先は先輩の妹であるナナリー・ランペルージ。スザクと彼女は楽しそうに笑っている。放課後は用事があると言っていたけれど散歩の約束をしていたのか。しかし、きっとそれを先輩がここで見下ろしているということはあの約束は先輩が取り付けた約束なのだろう。妹と放課後に一緒に散歩をしてやってくれないか、と。足の具合が良くなってきた彼女がゆっくり歩く程度の歩行なら可能になったということはこの生徒会のメンバーなら誰でも知っていることで、きっとスザクは散歩はリハビリのためだろうと思っているに違いない。私は屈んで先輩の肩に顎を乗せた。

「先輩はどうしたいんですか?いくらナナリーちゃんがスザクを好きでも、スザクにはユーフェミア様が・・・」
「婚約はまだなんだろう?」
「そうですけど・・・だとしても、スザクとナナリーちゃんは恋愛関係というよりはもう兄妹みたいなもんじゃないですか。いくらナナリーちゃんがその気があってもスザクは・・・」
「そんなこと分かってるさ。ただ、ナナリーにはスザクに何も言わないまま終わらせたくないんだ」

叶う確率が低いと分かっていながらの行動だったのかと私は少し驚いたが、尚更たちが悪かった。ナナリーちゃんのことについては少し過保護かとも思ったが先輩らしい選択肢だったから良い、けれど。

「じゃあ先輩はいいんですか。スザクに何にも言わないまま終わらせて」
「・・・ジノ、それは」
「なーんて、言えませんよね。普通は。そうですよね先輩?」

傷つけてしまうような言い方かもしれないが事実だからしょうがない。先輩は一瞬だけ眉を寄せたけれどすぐにいつもの顔に戻った。強がってるのは、なんとなく感じ取れた。

「いいんだよ俺は。言った所で、あいつを傷つけるだけだ」
「それは同感ですけど、分かってるなら諦めたらどうなんですか?モテないってわけじゃないんだから・・・」

先輩は女性から非常によくモテる。だからその気になれば恋人などすぐにできるはずなのだが、先輩はそうしない。スザクのことが好きでも無理なのだと分かっているならば、さっさと諦めて新しい恋人を作ってしまえばいいのにと思った。そこの切り替えがうまくできないのか、それとも女性には興味はないのか、先輩はずっとスザクだけを見ている。私はなんだかそれが、とても"面白かった"。先輩はゲイではないというけれど、スザクを好きな時点で私の中では先輩はゲイに分類されている。どうして男が同性である男に恋愛感情を持てるのか、不思議でしょうがない。

「先輩ってそういう噂聞いたことないけど、だとすると童貞なんじゃないんですか?」
「それがどうした?」
「あっさりと言っちゃうんですね・・・まあ、いいですけど。だったら溜まってるんじゃないかなぁって」
「お前は本当に・・・なんというか、お節介というか」

先輩は呆れたようにこっちを見上げてきて、不意に目が合った。整った顔立ちに透き通るような紫の瞳はやっぱり綺麗だと思う。先輩が女だったらなぁと思った私は、待てよと思考を一旦止めた。確かに先輩は男だけれどこれだけ綺麗ならば。そんなちょっとした興味が湧いてしまったら、私の腕は先輩の腹を抱えるように抱きしめていた。先輩が大きく肩を揺らして身を捩じらせる。私は後ろから先輩を抱きしめたままカーテンを引いて外からの光を遮ってから先輩の顎を持ち上げるように掴んだ。先輩が訝しげな目で私を見ていて、私は先輩の耳元で囁く。

「抱いてあげましょうか、先輩」
「・・・お前、ふざけるのにも限度が」
「ふざけてませんよ。それに・・・スザクに、抱かれたいと思ってるんでしょう?」
「ッ・・・」

先輩が表情を苦くして目を伏せる。逆にそういう態度を取られると煽られているような気分で、私は先輩の首筋に唇を寄せた。男にこんなことをするのは初めてだったけれど抵抗はなかった。上唇を白い肌にくっつけて啄ばむように咥えれば先輩の細い腕が私の胸板を後ろ手にぐいと押した。そのままくるりと私の腕の中で回って先輩はこっちを見ると、私が口をつけたところに手をあてて私を見上げた。

「正気なのか、お前こんなこと・・・」
「正気なのかって聞かれると、違うかも。でもなんか雰囲気っていうか、空気っていうか・・・ねぇ」

空気に酔っているという感じはあった。けれど、一度意識してしまったらそれを振り払うことは難しかった。私の頭のなかにはただ、この人をその気にさせる、ということだけがあって性別だとかその後のことだとかは一切考えていなかった。先輩が視線を彷徨わせて沈黙が流れる。いつ誰が入ってくるか分からない状況というのが私の気分を一層盛り上がらせる。女性のように柔らかくはないが細くて小さな先輩の尻を優しく鷲掴んで言葉を促すと、先輩は小さな声で言った。

「条件がある」
「ん、なに」
「誰にも言わないこと、それと、ここでは嫌だ」

小さな声だけどハッキリとした口調に少しだけ驚いた。見ればさっきまで彷徨っていた瞳はしっかりと私を見ていた。ただ、その瞳に情熱だとか寂しさだとかそんなものは混じっていなくてただ私を見ているだけだった。きっと、じっと見ればその瞳の奥にある何かを感じ取れたかもしれないが私にはOKを貰えたという結果だけしか頭に入ってこなかった。掴んでいた尻をパッと離して、エスコートするように先輩の手を持ち上げて手の甲に唇を寄せた。

「分かりましたよ、じゃあ私の部屋でいいですよね」
「お前の?政庁に行くのは・・・」
「あっちは本職の時にしか泊まりませんよ、ここに通うのに別に部屋を借りたんです」
「・・・なら、いいが」

どうせこのままサボったってこんな時間になっても誰も来ないのだから大丈夫だろうと私は先輩の背を押した。自分の荷物と、先輩が逃げないように先輩の荷物も持って私が先輩を扉へと押し進めると先輩は困ったような顔をしながら笑った。

「こら、そんなに押すなって」
「いいから、いいから」

これからしようとすることなど考えつかせないようなやり取りをしながら私と先輩は生徒会室を後にした。アッシュフォード学園からほんの少しだけ離れた場所にあるマンションの一室を私は借りていた。一応自分で用意した所だがいつもの癖が抜けないのか、せっかく庶民の学校に行くのだからもっと安いマンションにしておけばよかったと少しだけ後悔している。自分では思わないけれど一般的に見ると高級マンションに分類される所の最上階に私は部屋を取った。オートロックのエントランスを抜けてエレベーターに乗ると先輩が目で周りを見回していた。先輩はクラブハウスに住んでいるけれどやはり高級な造りには慣れていないのだろうかと思った私は、なんとなく肩を抱いてみた。すると先輩が面白いくらい身体を跳ねあがらせて私はつい吹き出しそうになってしまった。先輩はじろりと私を睨んできたが、すぐにエレベーターが最上階についたので私は誤魔化す様にエレベーターを一緒に降りた。





思っていた以上に男を、いや、先輩を抱くのは悪くはなかった。しかしきっとそれは先輩だからであって、もし普通の男を抱けなど言われたらきっと金を積まれるか皇帝陛下の命令でなきゃしないと思う。だが逆を言えば綺麗な男であれば可能ということでもある。自分の中の新しい何かを見つけたような気がして私は興味深かった。先輩はといえばというと、どうやら彼は初めてではなかったらしい。初めてした時にあれ?と思ったがその場では聞かず、終わった後に聞いてみれば経験はあったという。ならば本当にゲイなのではないか?と聞いたのだが先輩は首を横に振った。時々思うが、先輩は何かを隠しているというのか、なんだか掴みどころのない性格をしていると思う。本質が見えないからか挑発されるとつい乗りたくなってしまうが、抱いている最中にふと、どうしてこの人はこんなことをしているのだろうと現実に返ってしまうことがある。最初に誘ったのは私だが、それに乗る先輩も変だ。ましてや、一度だけではなく何度も身体を重ねる関係になるなんて思いもしなかった。薄暗いベッドルームで私の腕を枕にして天井を見つめている先輩の髪を遊ぶように弄る。後始末をしなくてはいけないなと思いながら枕の横を見るとさっき使ったゴムが縛ってある状態で3つ転がっているのを見つけた。明日も学校だというのに遊びすぎたような気がする。

「ねぇ先輩、まだスザクのこと諦められない?」
「・・・別に」
「もう諦めたほうが先輩のためだと思うんだけどなぁ」
「そんなこと分かっている。それより、いつまで続ける気なんだ」
「ん、何が?」
「何がって・・・こんなこと、いつまでも続けているわけにはいかないだろう」

先輩が突然そんなことを言い出すものだから私は、そういえばこれは一時的なごっこ遊びであって本物ではなかったと思い出した。確かにこんなことをいつまでも続けているわけにはいかないだろう。けれど、なんだか先輩のほうが早く離れたいというような言葉だったから私はつまらなかった。あんなに喜んでいたくせに自分から離れようとするなんて、具合は良いはずなのに。私は少し考えてから、提案した。

「そうだ、先輩がスザクのこと諦められたら終わりにしましょうよ」
「スザクを?」
「そうそう、先輩だって正しい道を歩むべきなんですよ。だからスザクのことをただの友達だって思えるようになるまで、先輩の性欲は私が解消してあげますよ」
「都合の良いように言ってるが、それはお前にとって何の利益もないと思うんだが?」
「そうですかね。私、特に恋人もいないし、でもこっちで遊び過ぎると軍がうるさくて・・・でも先輩となら暫くの間いいかな」

本当のところ、今まで特定して恋人を作ったことはなかった。いつも今の先輩のような一時的な関係を持つ女性は今までたくさん居たが。正直人を愛すだとかなんだとか私には分かっていない。まだ若いということもあるのだろうが、それでも同じ年齢の男でもう結婚の約束をしている女性がいるという奴が数人居る。皆、口々に相手を愛しているのだというのだけれど私には分からなかった。好きと愛してるには何の違いがあるのか。大抵の女性はベッドの中で好きだと言ってあげるより愛してると囁いてやる方が良いと本能的に知っていたから、いつも上辺では愛してると言っている。年齢的にはそんなに変わらない先輩がスザクに向けている好意はただの好きなのかそれとも愛なのか。どちらだろうかと考えると、やはり愛なのだろう。好きと愛では重さが違う?でも、好感を持っているということは変わりはないはずなのに。とにかく、私が先輩に一時的な関係を持ちかけると先輩は少し迷っていたようだが承諾してくれた。

「・・・分かった」
「そうそう、世の中ギブアンドテイクなんですから」

交渉成立ですね、と私が先輩の黒髪に口づけると先輩は仰向けだった身体をころりとこちらに向かせて私の胸板に額をトンとあてた。まるで本当に恋人同士になったようなそれに、演技にしては上手ですねと言いかけてしまいそうになる。ごっこ遊びだと分かっているから気が楽だなと私は先輩の細い身体を抱きしめた。




諦めるまでとは言ったものの、先輩がスザクを諦めようとする素振りは見られなかった。寧ろ今までよりもスザクを見ているような気がして、この人は本当に分かってるのか?と私は呆れてしまった。男が男を好きになっても無駄なことなのだと柄にもなく説教じみたことを言ってみたりもしたのだが答えは全てそんなこと分かっていると言われてしまった。男同士じゃ子供は生まれない。子供が生まれないということはその血を来世に残せないという意味でもある。子供も作れない男同士が好き合ってもしょうがないでしょう?と私が言ったら先輩はその日一日口を聞いてくれなかった。先輩とごっこ遊びをするようになって気づいたのだが、先輩はけっこう子供っぽい。一度機嫌を損ねたらこちらから謝らないとなかなか機嫌を直してくれないし、変な所で几帳面だったり潔癖だったりするから普通の女性より面倒だったりする。それに先輩はいつも身体を合わせた後、必ずと言っていいほど甘えるように擦り寄ってくる。恋人に甘えるかのような行為に最初はごっこ遊びの延長だと思っていたのだけれど、先輩は本心でそれをやっているということに気づいてしまった。相手が私だからというわけではなくて、きっと、誰かに触れていたいという気持ちからなのだろう。可愛いところもあるんじゃないかと思っていたが、ある時、何度も出してしまったせいで疲れてしまい余韻を楽しむ余裕さえ無く、した後にすぐに眠ってしまった。心地よい疲労感の中で眠っていると、何処からか鼻をすするような音が聞こえてきた。すんすんと、まるで泣くような音に目を覚ますと先輩の首に回していた腕が解けていて身体の横に放り出されていた。電気もつけてなかったが、隣で上半身だけを起こして先輩が蹲ってるのは見えた。今まで先輩が泣いている所など見たことがなかったら思わず驚いて飛び起きた。

「先輩?どうしたんですか?どこか痛いんですか?」
「・・・ッ、ち、がう」
「じゃあどうしたんですか?ほら、肩寒いでしょ」

肩を抱き寄せてやると先輩はぽろぽろと涙をこぼしたまま私に寄りかかってきた。赤ん坊をあやす様に背を叩いてやれば、先輩の口がスザクと小さく呟いた。壊れたオルゴールみたいに、何度も何度も先輩が呟く。そこで私は、先輩がスザクを諦めるのはそんな簡単なことではなかったのだと思い知った。夜と暗闇は人を不安にさせると聞いたことがある。先輩が、好きでもない男の私に抱かれたあとこの暗い部屋で孤独を感じてしまい泣いてしまったのだとしたらそれは私の責任だ。私は先輩を横にさせると、しっかりと抱きしめてやった。

「スザク・・・スザク・・・ッ」

私は、そう呟くのが無駄なことなのだと早く気づけばいいと先輩に回した腕の力を強くした。それから度々、先輩は同じように泣くようになった。その度に私は先輩を抱きしめて眠るのだが、最初のほうは丁寧に扱っていたけれど回数を重ねていくごとに面倒になってしまい途中から寝ぼけたままただ先輩の身体を自分の腕の中に引きずり込むような形になってしまった。でも、それでも先輩は泣き止むのだから結局抱きしめてやれば誰でもどんな状態でもいいのではないかと思った。




異様な関係が暫く続いていたが、予想外に飽きは全く来なかった。先輩がスザクを諦めたら、などと言ったが私は自分が飽きたらさっさと終わらせてしまおうと思っていたのだ。いくら具合が良くても相手は男、長く続くはずがないと思っていた。けれど、先輩と身体を重ねれば重ねるほど飽きるどころか興味が湧いてしまう。これはマズイのではないかと私が気づいたのは、私が先輩に僅かな好意を持っていると気づいてしまったからだ。あんなに男同士はあり得ないと思っていたのに、今や身体を合わせた後に寄ってくる先輩が可愛いとさえ思ってしまう。その感情は以前に好きだと思っていた女に向ける感情と同じだった。私は自分自身が信じられなかった。先輩がスザクを好きだと知った時、そんなこと男同士で普通はありえないと思っていたのに。自分の勘違いであって欲しいと思っていたのだが決定的な出来事があった。いつものように私の部屋で行為を行っている最中、ふと、突き上げている間先輩が唇を噛んでいることに気づいた。声を耐えているのだろうが噛み切ってしまいそうなほど顎をぶるぶると震わせているので、ついいつもの癖で私は唇を重ねようとしたのだが。

「ッ、ダメだ!」

先輩が大きな声で拒絶して顔をそむける。まさか嫌だと言われるとは思わず呆気に取られていると、先輩は私を見ずに絞り出すような声で懇願した。

「キスは、駄目だ・・・やめてくれ・・・」

キスなんて大したことでもないのにそう願われてしまったら、なんだか私がいけないようなことをしようと無理矢理しようとしたように聞こえる。今更こんなに身体を触れ合わせているのだからキスくらい、と思ったが、そういえば今まで一度も先輩とはキスをしていないことに気づいた。いつも抱いた女がキスをせがんでくるから自分からキスをしようと考えたことがなかったのだが、先輩が要求してこなかったからキスはしていなかった。

「はは、チューは駄目でもエッチはいいんですか?」
「・・・だめだ」
「先輩って面白いね、チューはNGで体はOKって、デリヘルみたい」

私はわざとらしくそう言ってケラケラ笑ってみせたが先輩は何も言わなかった。ただじっと我慢するように壁を睨んでいるだけで、なんだかそれが私にはつまらなかった。結局キスをしないまま行為を終わらせた後、いつものように先輩が私の腕の中で眠る。いつもならば疲れて私も先輩も眠ってしまうのだが、なんだか私は眠れなかった。すうすうと寝息をたてる先輩の前髪を払い、閉じられた唇を親指で優しくなぞる。キスは駄目だと言われると余計に気になってしまう。口紅もグロスも塗っていない、厚みだってそんなにない男の唇。健康的なピンクの色より薄い色をした唇を食い入るように見つめる。

(別に、キスくらいしなくたって・・・)

そう思うのに、私の顔はいつの間にか少しずつ先輩の顔に近づいていた。こんな、キスをしたいと思うなんておかしいはずなのに。まるで夢の中を泳いでいるように思考がふわふわとして、私が鼻先が先輩の鼻に当たった。このまま顎を進めれば唇が重なる、という時に先輩が眉を寄せて唸った。身じろぎはしなかったけれど苦しそうな表情をする先輩は、私が欲しいと思った唇を開いて小さくスザクと呟いた。

「ッ・・・!」

そこで私はハッと我に返った。飛び起きて先輩と距離を開けると、思わず自分の口を手で覆う。今、私は何をしようとしていたのだ。まるで、これじゃあ私が先輩のことを好きなようではないか。そんな、同じ男にそんなことありえない。あってはならない。男同士の恋愛などあり得ないと頭では分かってるのに、私は先輩に何をしようとしていたのだ?いや、何をしようと・・・既に身体を重ねてしまった時点で私は可笑しいのかもしれない。私は急に、今まで私が先輩としてきたことが恐ろしくなってサッと青ざめた。全身に冷や水を浴びたかのように背筋に悪寒が走る。

(こんなこと、普通じゃない!)

私が先輩のことを好きだなんて、そんなことあってはならない。恋愛とは男女の間でのみ成立するべきものだ。私はラウンズで、皇帝に仕える身。それに父や母、姉たちだって居る。私は後々きっと貴族の女性と婚約する運命にあるのだ、それなのに、こんな一般のしかも男性とこのような行為をしてしまっただなんて。本当に、少し、悪ふざけが過ぎたかもしれない。

(・・・これ以上は、無理だ)

先輩を好きかもしれないと自覚してしまった私は、怖くなった。どうしてこんなことになってしまったのか、ただの遊びだったはずなのに、人の道を踏み外してしまうなんて。隣で丸まって寝る先輩を見降ろす。さっきまで触れていた先輩の肌に、もう触れることはできなかった。




「スザク、この書類のことなんだが・・・」
「えっ?あ・・・うん、それはね・・・」

先輩は平然を装っているみたいだけど、緊張しているのか身体の動きが固い。勿論スザクがそれに気づくわけもなく、私は二人の座る位置から反対の椅子に座りその様子を眺めていた。何だか今日は苛々する。特に、先輩とスザクの二人を見ていると。私は指先で机をトントンと叩く。先輩とスザクが少しの間話すと、スザクはそのまま生徒会室を出て行った。鞄を持って行ったからもうここには戻ってこないのだろう。ふたりきりになった生徒会室で、先輩がはぁと息を漏らす。視線はスザクが出て行った扉に向けられていて、そんなにあいつのことが好きなのかともう呆れるしかなかった。

「せーんぱい。いい加減、どうなんです?だいたいスザクの何処が良いんだっていうんだか・・・」

確かにスザクは友人として付き合うには最高の奴だが、そういう目では見れない。先輩はスザクの何処に惹かれているのかと、なんとなく漏らした言葉だったが先輩は私の方を向くと微笑みながら口を開いた。

「あいつは強い。いつも俺を守ってくれる」
「・・・はぁ?」
「俺はあいつのそういう、優しいところに救われてきた。だから、あいつのことが好きなんだ」

意味が分からない。守ると優しいがどうして繋がるのか理解できず、私は大きくため息をついた。本当に苛々する。

「結局、先輩はスザクが強いから好きなんですか?ラウンズだから?」
「別にラウンズだからとか、そういうわけじゃない」
「ふぅん、ああ、そうなんですか」
「・・・何だ、どうして怒ってるんだ?」
「別に。怒ってなんかいませんよ」
「・・・」

別に先輩がスザクのことを好きなのは今更だったから怒る必要もない。ただ、好きな理由がはっきりと分からないことがムカついてしょうがない。強いから好きなのか?だったら、私の方が力がある。ラウンズのナンバーだってスザクより4つも違う。守ってくれる、だなんて、いつスザクが先輩を守るようなことをしたのか。先輩の妄想なのではないか?ああ、しかし別に妄想だって私には関係ないというのに何で私はこんなにもイラついているのか。黙りこんだ私を先輩が不安そうな瞳で見つめてくる。止めてくれ、そんな目で私を見ないでくれ。もう先輩を見たくない、先輩を視界にいれたくない、先輩と関わりたくない。急にそんな想いがこみ上げて来て、私は唇を噛んだ。

「おい、どうしたんだ一体・・・具合でも悪いのか?」

不意に先輩がそう言って近づいてくる。私の額に手をあててこようとしたその手を、私は強く振り払った。パシンと乾いた音が部屋に鳴り響き、先輩が目を見開く。宙に浮いたまま先輩の手は固まり、私は立ち上がると先輩へにっこりと笑ってみせた。

「先輩、もう終わりにしようか」
「・・・なに、を?」
「だから、もうエッチするのやめましょうって言ってるんです。先輩、スザクのこと諦める気ないみたいだし」

そうだ。早くこうしていればよかったんだ。私が変な迷いを起こす前に、こうして関係を終わらせればよかったのだ。私は満面の笑みを浮かべたまま先輩の肩を叩いた。

「正直、もう男と寝るのはキツいんですよね。やっぱり女性じゃないと生理的に無理っていうか」

先輩の目が驚愕に開いたままゆらゆらと揺れている。言葉も出ないのか微かに開けた先輩の口からは何も出てこない。私は先輩に言いながらも、何より自分に言い聞かせるために強く言った。

「先輩も、もうやめた方がいいですよ。スザクのこと。はっきり言って先輩がスザクのこと好きなのって・・・」

一呼吸置くと、先輩の顔が真っ青になっているのに気づいた。ようやく先輩も自分の異常さに気づいたのかと思い、私は笑いながら言い放つ。

「気持ち悪いですよ」

先輩の顔が絶望の色に染まるのを私は見た。でも、私は間違ったことは言っていない。先輩のほうがおかしいのだから。私は立ち上がり先輩の正面に立つと、屈んでその瞳を覗き込んだ。

「でも先輩がどうしてもっていうなら続けてあげても・・・」

と、私がそう言った途端、先輩の右手が私の頬を叩いた。鋭い痛みが頬に走り、驚いて先輩を見ると先輩は目に涙を浮かべ私を睨んでいた。ぶるぶると歯をくいしばって悔しそうなその表情に何故か一瞬だけ胸が痛んだ。泣かせてしまったのかと理解した時には先輩は荷物を持って生徒会室を飛び出して行ってしまった後だった。私は一人きりになった生徒会室で、叩かれた頬をさすりながらこれで終わったんだなと思った。なんだか、苛々していたのが馬鹿みたいにあっさりと終わってしまった。これでもう私の中の何かが揺るがされることはない。安心するべきことだ・・・なのに、どうしてか私は胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。先輩の泣き顔が脳裏に浮かんで離れず、私は舌打ちをしてから携帯を取り出した。気分を紛らわそう。久し振りにあの娘と会おう、そう思って私はダイヤルのボタンを押した。




『あなたって最低ね!もう知らない!ラウンズだからって、何でも思い通りになると思わないで!』

思わず受話器から耳を離したその甲高い声はすぐにブツリと切れてしまった。ため息混じりに電話を切る。これで八人目だ。自分でそんな回数を数えているあたりタフなのではないかとも思うけれど、なんだか疲れてしまい自分で笑う気力もなかった。 せっかく気に入った女性には逃げられてしまうし、なんだか良いことが無い。私の周りは、特にスザクなんかは幸せの絶頂だろうにどうして私にはその幸せが回ってこないのか。ふかふかとした一人用のソファに座り、天井を見上げた。

(スザクとユーフェミア様の婚約パーティーよかったなぁ・・・あの時もうちょっと女性に声をかけとくべきだったかな)

つい先週トウキョウ租界の政庁でユーフェミア様とスザクの婚約式が行われた。本国に戻って行うべきだとコーネリア様は言っていたが二人がエリア11で行いたいと言ったから政庁で行うことになったらしい。綺麗なドレスを着たユーフェミア様とラウンズの正装を纏ったスザクが寄り添って歩く姿はお似合いで少し羨ましかった。よくコーネリア様や皇帝陛下がユーフェミア様とスザクの婚約を許したと思う。なんせ、スザクは生粋の日本人でしかも日本国元首相の息子であり、ユーフェミア様はブリタニア皇族のお姫様なのだ。もし二人の間に子供ができたとしたらその子供は皇族になるのかという疑問があったが、聞いたところによるとユーフェミア様は近々皇位を返上するらしい。普通の女性として生きたいという意味なのだろうが、皇族にしては面白い人だなと思う。婚約式の後に披露パーティーを行い、各界の貴族やユーフェミア様と親しかった皇族の方などに混じってアッシュフォード学園の生徒会のメンバーも来ていた。シャーリーなどは感動して涙を流していて、やはり嬉しいのだなと思ったが生徒会メンバーの中に先輩の姿は無かった。ナナリーちゃんも居なかったからどうかしたのかと私がミレイ会長に問うと、ナナリーちゃんの体調が良くないので来れなくなってしまったそうだった。私はあの後先輩の会うのが気まずくてなんとなく避けていたから、こんなスザクの婚約披露パーティーで会わなくてよかったと思った。

(先輩・・・どうしてるかなァ)

目頭に指をあててため息を吐く。あまり私が女性との関係がうまくいっていないのは、きっとアーニャやスザクなど周りの人たちも気づいているだろう。いつもならば女性の一人や二人、簡単に扱ってみせたというのに。さっき電話で怒鳴られた彼女は、ブラウンの綺麗な長髪の女性だった。おっとりとした性格をして、おしとやかな物腰に惹かれて誘ったのだが何が悪かったのか嫌われてしまった。彼女があんなに怒鳴るような性格だとは思ってもいなかったから少しショックだ。彼女は胸が大きかったから、あの身体を抱けなくなると思うととても残念だ。しかし、いくら美人を抱いても胸の大きい女性を抱いても私の中に空いた何かは埋まることはなかった。それどころか、どんどん穴が広がっていってるような気がする。原因は分かっている。

(でも、しょうがないじゃないか。男同士なんて・・・)

私が先輩のことを好きになってしまったと自覚してから、私は先輩を一方的に拒絶しつづけた。それは私が臆病者だからだ。今までずっと否定してきたことを自分がやっていたのだと気づいてしまい、そしてそれが怖くなって逃げ出した。逃げて、忘れて、そして思い出にしてしまえばただの遊びだったと思えると思っていた。だが実際はどうだろうか。先輩のことを中途半端に投げ出しただけで、何も変わってはいない。私は携帯を取り出すと、アドレス帳から先輩の番号を呼び出す。何度もかけたその番号を眺めながら、今はどうしているだろうかと思った。きっとこの時間なら授業中かもしれない。そろそろ学校に行ったほうがいいと思うが先輩と会うと思うと気が重くて学校には行けなかった。アーニャやスザクは忙しいという理由で学校に行けていないらしいのだが、私は学校に行く時間は十分にある。先輩とのことを整理できれば、そんなことを思いながら私はその番号に発信した。

(話すだけ、少し話して・・・それで、いつも通りにすればいい)

そうしたらもう一度、ただの先輩と後輩の関係に戻れる。そう信じながら電子音を聞いているとプツリと電子音が止んだ。サーっという微かなノイズの向こう側に息遣いが聞こえ、私はドキドキと緊張する鼓動を抑えながら口を開いた。

「も、もしもし先輩?私です、ジノですけど・・・」
「・・・ジノ君?」

電話の向こうから聞こえてきたのは先輩の声ではなかった。高い女性の声、それも聞き覚えのある。かけ間違えたかと画面の電話番号を確認するがそれはちゃんと先輩のもので、私は再び電話を耳にあてた。

「ミレイ会長?あれ、これ先輩・・・ルルーシュ先輩の電話じゃないんですか?」
「ああ、うん。そうよ、これはルルーシュの電話」
「そうですか、びっくりした。かけ間違えたのかと思っちゃいましたよ」

電話の向こうの主はミレイ会長だった。驚いた反面少し安心してしまった。どうしてミレイ会長が先輩の携帯に出るのか疑問に思ったが、先輩が手が離せないか何かで代わりに出たのかもしれない。パーティー会場では会ったけれどそれきり久しぶりに聞いたミレイ会長の声に私は最近行けてなくてすみませんなんて謝ってしまった。

「ううん、いいのよ。ラウンズだって忙しいんでしょう?スザク君のことだってあるし、好きな時に来てくれて構わないのよ」
「そうですか、ありがとうございます。えーっと・・・ルルーシュ先輩に代わっていただけますか?」

ミレイ会長が傍にいるならば先輩も下手なことは言ってこないだろうと思ったのだが、しかし私がそう言うとミレイ会長は黙ってしまった。まるでピタリと時が止まったかのように沈黙が流れる。どうかしたのだろうかと首を傾げる。そしてミレイ会長が静かな声で言った。

「ルルーシュは、死んだわ」





冷たいこの石の下に先輩が眠っているのだと思うと、実感が沸かなかった。私はラウンズの正装ではなく黒いスーツを着て先輩の墓の前に花束を添える。名の刻まれた石をそっとなぞる、そこにはルルーシュ・ランペルージと刻まれていた。先輩が死んだなんて信じられなかったが、こうして目の前に現実を突きつけられてしまうと言葉が出てこなかった。呆然と墓を見つめていると、後ろに立っていたミレイ会長が何を感じ取ったのか静かに去っていった。二人きりにさせてあげようと思われたのかもしれない、けど、たぶん先輩は私と二人きりになんてなりたくないんじゃないだろうかと気の抜けた頭で思った。全てはここに来る途中にミレイ会長から聞いていた。

「自殺か、殺されたか・・・分からないわ。ただ私がルルーシュを見つけた時にはもう・・・」

クラブハウスのエントランスで、階段の途中で先輩は倒れていたらしい。検死の結果は階段からの転落による脳挫滅。ただし、その日先輩はナナリーちゃんの病院に付き添いで行っていたはずだったので先輩がクラブハウスに居るはずがなかった。病院で同じく付き添いで行ったメイドの咲世子は待合室にいた先輩が突然居なくなってしまったと言っていたらしい。誰かに呼び出されたのか、それとも自分からクラブハウスに向かったのか分からない。傷の具合から先輩は階段の一番上から仰向けに落ちたらしい。自分から落ちたにしては仰向けは不自然すぎる、誰かに突き飛ばされたと考えるのが一番自然だが怪しい人物は見つかっていない。身近な人間が怪しいのではないかとも思われたが、その日はスザクとユーフェミア様の婚約パーティーの日で生徒会メンバーの皆は政庁に居た。死亡推定時刻にはちょうどパーティーでダンスが行われていた時だ。だいたい、生徒会メンバーの中で先輩を殺そうと思う人なんているわけがない。

「ルルーシュが死んだことは・・・皆にはまだ言っていないの。ただ、ナナちゃんの病気の関係で転校するとだけ・・・」
「どうして・・・ですか?」
「・・・それは、ルルーシュが、死んだはずのルルーシュ・ヴィ・ブリタニア皇子であるからよ」

私は先輩の秘密を知った。幼少の頃に日本に送られてきたことや、本国で死んだこととされること、あのマリアンヌ様の息子だということ。以前に耳にしたことがある、マリアンヌ様にはお子様が二人いらっしゃったがそのどちらもが不幸な事故で亡くなってしまったのだと。私は愕然としたままミレイ会長の話を聞いていた。先輩とスザクは幼い頃に出会い、スザクは先輩がブリタニアの皇子だということを知っていたらしい。訳あって離れ離れになっていたスザクと先輩は七年の間をあけて再開し、スザクはその一年後にラウンズとなった。全ては先輩とナナリーちゃんを守るためにスザクはラウンズになり、また事情を知ったユーフェミア様も協力してくれたそうだ。先輩に以前スザクの何処が好きかと聞いた時に、自分を守ってくれると言っていたことを思い出して、そういうことだったのかと理解した。

「・・・いつか、こんな日が来るんじゃないかって警戒していたのに私はルルーシュを守ることができなかった。それだけじゃなくて、偽の名前でしかお墓も用意できなかった。本当は、マリアンヌ様の横に眠らせてあげたかったわ」

死んだはずの皇族が生きていると知られれば命を狙ってくる者も出てくる。そしてその暗殺者はいつ襲ってくるのか分からない。だからスザクはこのアッシュフォード学園に居たのだろうか、先輩とナナリーちゃんを守るために。ミレイ会長にどうして私にそのことを話してくれたのかと聞いた。

「ナナちゃんを、皇室に戻すと決めたの。そのためには事情を知っている味方を作っておかなければいけないわ。特に、皇族と接する機会のあるラウンズなんかにはね。」

ナナリーちゃんは自分で皇室へ戻ると言ったそうだ。きっと彼女は、兄が死んだ悲しみに浸る余裕もなくそれを決めたのだろう。自分の身体が不自由なことを理解していたから、このまま逃げ続けるのは無理だと悟ったのだ。ナナリーちゃんのようなまだ幼い少女が陰謀が交錯する皇族の中で生き延びるのは難しい。下手をすれば外交などに利用されてしまう恐れもある。それを防ぐためにミレイ会長は真実を知る味方が欲しいと言った。

「それにジノ君、あなたルルーシュと何かあったでしょう?」
「えっ・・・」
「二人の様子を見てれば分かったわ。ルルーシュもジノ君を避けてたみたいだしね。何があったか知らないけど、でも、仲はよかったんでしょう?」
「・・・・・・その、先輩とは」
「いいわ、言わなくて。・・・あのね、本当はルルーシュはあなたみたいな人とは関わらないようにするタイプなの。貴族だし、ラウンズだし・・・ルルーシュの嫌いな要素がいっぱい。でもルルーシュはあなたを受け入れてた、信頼していたはずよ」

だってルルーシュ、信頼している人じゃないと身体を触らせないのよ。そうミレイ会長は苦笑しながら言った。最初のころ先輩にスキンシップで触れようとして力強く拒否されたことがある。あれはただのふざけてとかじゃなくて、本当に嫌だったのか。いつ殺されるか分からないから。だからスザクもあまりルルーシュにはスキンシップはしないほうがいいと言っていたのか。ミレイ会長は私達が仲の良い関係だとは思っているようだが、まさか身体を重ねるような関係だったとは知らないだろう。罪悪感と後ろめたさに私は押しつぶされそうだった。

「・・・先輩」

片膝をついて石に触れる。アッシュフォード学園にあるアッシュフォード家しか入れない庭の奥に先輩の遺体は埋められた。本当は墓石も立てるべきではなく、名も刻まないほうがよかったらしいがそれではあまりにも先輩が可哀想だとミレイ会長が言ったらしい。スザク達には先輩のことは後々伝えるというが、婚約のパーティーの日に先輩が死んだのだと知ったらスザクやユーフェミア様は悲しむだろう。

「結局、何も知らなかったのは私だけだったんですね・・・」

先輩がスザクのことを好きだということしか、私は分かっていなかった。先輩は、スザクに何も言えずこの世を去ってしまった。諦めろとばかり先輩に言い続け、最後には自分勝手に先輩のことを私は放りだした。私は、ただ先輩を酷く傷つけただけだった。

「っ・・・」

ポタリと石碑に雫が落ちる。一度溢れだしてきた涙は止まることなく、私は崩れる様にしゃがみこんで泣いた。先輩が、どんな思いを残して逝ってしまったのか。もしあの時、私が先輩から逃げていなければ何かが変わっていたかもしれない。先輩が逝ってしまうことはなかったかもしれない。泣き叫ぶ声は響くことなく、ただ木々のざわめきと一緒に風に流されていく。こんなにも私は先輩のことが好きだったのか、いや、愛していたのかと思ったがそれは気付くには遅すぎた想いだった。



夜毎に、すすり泣く声で起きる。また泣いているのかと腕を伸ばしてその身体を抱きこもうとするのだが、私の腕は何も掴まないまま宙を切る。そして私は目を開いて、ベッドの上には自分しかいないことに気づくのだ。私が起き上がるとさっきまで聞こえていたすすり泣く声はパタリと止んでしまって、その声は本当に聞こえていたのか分からなくなる。私は自分の横に空いたスペースを見つめてまた眠りに落ちる。あの泣き声はきっと、もうここにはいない彼のものなんだろうと思うと私は言葉にできない痛みを胸に感じるのだ。



----------------------
救えない、救われない話。