ちょんちょんと裾を引っ張られて、こういう風に呼ぶのはあの子しか居ないなと思いながらカノンは振り返った。案の定そこにはカノンが予想していた通りの人物が立っていて、ぶすっとした不機嫌な顔でカノンを見上げていた。

「なあにルルーシュ?」

ルルーシュが不機嫌なのはいつものことなのでカノンは気にしないで微笑みかける。ルルーシュはワイシャツに下着だけというはしたない恰好だったが、濡れている髪の毛やほんのり赤い頬を見るところシャワーでも浴びていたのだろう。ぱくぱくと口を開いて喉を軽く叩いたルルーシュに、カノンは両手に持っていた書類を脇に抱えた。向き合うようにしてから右手を差し出せば、ルルーシュの暖かな手がカノンの手に触れる。右手の人差し指だけを立て、左手はカノンの右手の下に添える。カノンの手のひらで、正確にはカノンの手袋の上でルルーシュの人差し指が踊った。

「・・・、・・・、・・・・・・、うん、それで?」

カノンが聞き返すと、ルルーシュが人差し指を動かす速度を速める。感情の昂りがそのまま指に反映され、皮膚が少しへこむくらい強く指を滑らせる。カノンはルルーシュの描く人差し指の感触と、目で見える人差し指の動きを見逃さないようにしっかりと見つめた。

「・・・、うん、・・・うん・・・、ああ、そういうことね。分かった、温度は下げておくわ。」

そう言うと、ルルーシュは少しほっとしたような顔をした。ルルーシュの手がカノンの手を離れ、カノンは書類を持ち直した。ルルーシュは軽く会釈をするとそのまま去っていってしまい、ルルーシュの後ろ姿を見えなくなるまで見届けるとカノンはルルーシュの歩いて行ったほうとは反対の方向へ歩き出した。カツカツと足音を立てながら廊下を歩く。ここはプライベートルームに繋がる廊下なため、他に歩いている者はいない。このまま進めば一般兵も出入りできる廊下に出るが、その前にロックのかかった扉を3つもくぐらなくてはいけない。IDカードと10ケタ以上のパスワード、それと指紋認証と角膜認証。厳重に守られた扉は内側からも外側からも入るのは大変だ。しかし、もう何度も出入りしてきたため最早面倒とも感じなくなってきてしまった。まず1つ目の扉、そしてすぐに2つ目、少し歩いてから3つ目。3つ目の扉が開いて、つい、漸く通常空間に出れたと思ってしまう。

(まるで飼育箱、そんなにあの子に逃げられてほしくないのかしら)

足の歩みを止めないまま書類を見直す。パラパラと書類を確認しながらカノンは、ふとルルーシュのことを考えていた。今は亡きマリアンヌ后妃の長子、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。データ上では既に死亡とされている皇子。後ろ盾だったアッシュフォード家の計らいにより身分を隠しながらアッシュフォード学園に在学。偽りの学生を演じていたルルーシュ、しかしそれもまた偽りの姿であった。黒の騎士団のリーダー、ゼロ。ルルーシュのもう一つの本当の姿だ。ブラックリベリオンを引き起こし、一年後にまた復活を遂げる。中華連邦と手を組み、超合衆国を建国。全てはゼロの計画通り進んでいたかに見えた、だが今現在、この世界にゼロはもう存在しない。

(どう頑張っても、シュナイゼルからは逃げられなかったのね)

ナイトオブセブン枢木スザクを監視の結果、枢木神社にてゼロを確保。シュナイゼルはゼロを捕らえたと発表した上で、黒の騎士団に停戦条約の締結を申し出た。内容は細かなものだったが、大きく見ればゼロと引き換えに日本を返却するというものだ。組織のリーダーを見捨てられないと黒の騎士団は条約を締結しようとはしなかった。しかしシュナイゼルが黒の騎士団の幹部にのみゼロの正体及びギアスの存在を伝えると、黒の騎士団はあっさりとゼロを手放した。イレヴンとは所詮そういうものだ、味方の皮を被った敵の言葉を鵜呑みにして勝手に勘違いをする。証拠は出したけれど、それが全て確かだという保障はないのに。

(仮面は便利だけれど、時には信頼を簡単に裏切りに変えてしまうわ)

捕えられてから行われた幾度もの拷問、それに加えて黒の騎士団の裏切りにルルーシュは声を失った。精神的なものだそうだが、今のところ回復の見込みはない。精神的なものとはつまりルルーシュ自身の身体がそうしたということでもある。ルルーシュにとって声は重要なもののはずだ。何故なら、彼のギアスは口で命令しないと効かないからである。その重要な声を放棄してしまうほどの絶望をルルーシュは味わったのだろうか。

(あの子を苛めるのは楽しい?シュナイゼル。私にはとても楽しいとは思えないわ)

正直、カノンはルルーシュのことをあまりよく知らなかった。記録上の人物像は何となくは把握できるが、ルルーシュという人物そのものまでは全く知らなかったのだ。元皇族、なのにブリタニアに反逆するテロリスト。その時点で異端な者なのだろうとは思っていて、実際に目にするとまさに彼は異端であった。血の様に禍々しく光る左目、あの目は悪魔の目だ。またそれとは別に、両手両足を拘束され猿轡をされた状態でもルルーシュは美しかった。流石は腹違いとはいえシュナイゼルの弟だとその時は思った。けれど最近はやはりルルーシュとシュナイゼルは所詮腹違いなのだと思うようになってきた。たとえ表面上が似ていたとしても、根本的な心の部分では彼らは決定的に違い過ぎる。情に殺されたルルーシュと、情を操るシュナイゼル。どれだけ頭脳が互角でも、その差がルルーシュを敗北へと導いてしまった。

(ああ、でも目の光を失わないところを見ると、似ているのかしら。それともあの強さは父親からの影響かしらね)

先ほどのルルーシュとの"会話"を思い出す。声が出ないルルーシュは、相手の掌に文字を書くことで言葉を伝えてくる。一文字ずつ掌に書いていくのは時間のかかる作業だが、何故かシュナイゼルが筆談を認めないために今はこうなっている。さっきは確か、シャワーの温度が熱すぎるという内容だった。熱くて温度を下げようにもコックが動かなく、声が出ないので助けを呼ぶこともできなくて大変だったとルルーシュは怒っていた。捕まる身でありながらルルーシュはとても良い環境の中に居る。シャワートイレ付の一室、牢獄というには豪華すぎる装飾達。ふかふかのベッドにふわふわの絨毯。捕まるというよりかは、シュナイゼルに飼われていると言ったほうがいいのかもしれない。世界から求められなくなったルルーシュはもうシュナイゼルの手の中で生きていくしかない。もちろん最初のころはルルーシュは拒絶し逃げ出そうと暴れまわっていたが、何を条件にしたのかは知らないがある日を境にルルーシュはパタリと抵抗をやめた。しぶしぶといった様子は窺えたが、それでも今は大人しくあの部屋の中で飼われている。カノンが予想するに、きっとナナリー皇女殿下に関係することだったのだろう。彼女はルルーシュの妹であり、唯一の兄妹なのだ。枢木スザクと枢木神社で会うきっかけとなったのもナナリー皇女殿下だというし、十中八九ナナリー皇女殿下だと思っていいだろう。

(妹のために、兄に飼われることを選んだ・・・・・・全く、馬鹿な子)

カノンは知っていた。彼がシュナイゼルに度々抱かれていることを。ゼロをルルーシュだと見抜き、どうにかして手に入れようとしていたシュナイゼルを傍で見てきて違和感を感じるときはあった。兄弟にしては執着心が強くないかと。だが、元を探ればそういうことだったのである。何故兄弟を愛してしまったのか、何故兄弟なのにそのような関係を望むのか。一般常識で考えたら答えは出ないのではないだろうか。カノン自身も分類に分ければホモセクシャルの人間に入る。ルルーシュを抱くシュナイゼルの気持ちは、分かりたくはなかったが分かってしまった。もし自分にあのような弟がいたとしたら、そういう気が起きる可能性は大きくある。ルルーシュの世話は基本的にカノンが行っている。世話と言っても食事と衣類の管理くらいで、あとは話し相手になる程度だ。ルルーシュと接するたびに彼に関する新しい発見があり、それに惹かれている自分に気付いていた。見た目だけが綺麗な男ならいくらでもいる。問題なのは中身だ。心の綺麗さの判断など個人差が大きく、それ故に曖昧で難しい。人間の本質を見極める難しさは紙一重でもある。ルルーシュの場合それがよく当てはまるだろう。物事を理論で片付ける彼は、時に理想論を漏らす時がある。人間の汚い所を見てきながら、傷つく痛みを知りながらも、人間の心を信じたいと本当は思っている。それを無意識のうちに隠そうとしているルルーシュが、カノンはとても愛おしいのだ。けれど、あれはシュナイゼルのものだから手は出さない。いや、出せない。彼が助けを求めてきたとしても、その手を握ることは自分には許されないのだ。

(可哀想なルルーシュ。可哀想な私。)

ルルーシュを守る見えない檻はルルーシュを逃がさない他に、檻の外の人間がルルーシュに触れないようにするためにある。見えない檻、それはシュナイゼル自身。檻を破るなんてことできるはずがなく、今はただ手のひらの会話に想いを寄せるだけ。ルルーシュと声で会話したことは一度もない。声は機械越しに何度か聞いたことがあるけれど会話はしたことはない。いつかルルーシュの声が戻ったとしたら、今度はルルーシュは目を塞がれてしまうだろう。カノンが合うルルーシュはいつもどれかが欠けている。完全な形で会うことは、もしかしたらもう不可能なんじゃないかと諦めているところもある。だからせめてこれだけはと願う。完全な姿じゃなくていい、いつか声が戻ったとき、その口で名前を呼んでほしいのだ。






---------------------
手のひらに文字を書くルルーシュが書きたかった。